波多武日子命と秦に関する小考 2014.12

三宅神社に伝わる社伝に
「元素人皇八代孝元帝の皇子大彦命の男宮波多武日子命越の国を賜り玉ふ。時に新羅王子天日桙命を倶い中津国に至り天皇に仕へ奉る。この時越の川東を賜り波多武日子命、天美明命を婚り合せ此の国に至り賜ふ。」の一文がある。

 この伝承は記紀はもちろん、主要な国史にも見えない。しかし、現代の秦氏関連の研究の謎を解明するにあたって、重要な手がかりとなる三宅神社伝承の中核だと思われる。
 他に比較検討出来る史料が無いため真偽になると確認のしようがないが、逆に吉田家へ由来書献上の際に社格を誇張するために創作したとするには疑問が多い。

 1.波多武日子命が越の国を賜りとあるが、その後の川東を賜りと範囲が縮小する。
  記紀によれば大彦命の子孫には越国造がいるのだから、誇張が目的ならそのままが越
  の国を賜ったとすれば済む話のように思えること。

 2.御祭神の一人を他の史料上では越後の国に痕跡があまり見当たらない天日桙命と
  し、さらに記紀にも登場しない天美明命を記載し関連性を強調している。史料上越
  後の国に関連性の低い御祭神名や知名度の無い御祭神名を記載しても誇張の足しに
  はならないと思われること。

さらに社伝全体では

 A.続日本紀記載の越後国の偉人、従八位上を授けられた三宅連笠雄麻呂の記載が欠落し
  ている。誇張が目的ならば混入されないのは決定的におかしい。

 B.先祖の偉人の記述が欠落している反面、朝廷の意向に反して咎を被った記述を念入り
  に記載している。

 以上のことから、個人的には社伝を誇張創作したとするよりは、逆に伝承を忠実に伝え
ようとする姿勢の方が強く感じられる。もちろん全て史実であるとするつもりも無いが、
累代に自称するカバネと思われる名称の確度を除いて、全体の骨格自体はおおよそ忠実に伝承を伝えているのではないかと考える。

 この三宅神社伝承の一番主要な点は、大彦命・天日桙命を祖神とする波多武日子命の
「ハタ」氏族グループが存在することに尽きるだろう。応神期の弓月君に先行する.波多
武日子命の「ハタ」グループの存在を仮定することによって、現代の「秦氏」に関するの
謎の多くが理解出来るようになるのは事実だ。

 近年の諸氏の研究の成果で、天日桙命の伝承地には秦の存在が明白になってきている。応神期に百済から渡来したとされる秦氏の祖「弓月君」の伝承だけでは、垂仁期かそれ以前とされる天日桙命の渡来伝承と新羅王子とされる同神を百済からもたらす不自然さを説明しきれない。その矛盾を三宅神社の社伝ではよく説明することが出来る。

 同様に大彦命を祭祀する神社等に見え隠れする秦氏の存在も、大彦命を祖神とする秦グループがいたと考える方が自然ではないだろうか。特に敢国神社では創建当初から秦氏の存在が濃厚で深く関わりがあると思われる。古代、伊賀地方には秦族が多く居住したていたのは事実だと思われるが、それだけの理由で渡来系の氏族が大彦命の祭祀に深く関わったとするには到底納得がいかない。秦族が祭祀したとされる少彦名命も大彦命の弟君に比定する説もあるが、それではなぜ秦氏が縁もゆかりも無い他族の先祖を祭祀するのかの疑問には答えが得られない。

 上記の謎のように大彦命・天日桙命の両神に付随する秦氏の存在は応神期の「弓月君」の伝承だけではその理由が理解出来ないが、大彦命・天日桙命を祖神とする波多武日子命の「ハタ」氏族グループを想定すると驚くほど良く理解が出来るのである。

 それではなぜ初期秦グループの中核である波多武日子命が、後世の秦氏の祖として登場しないのかという大きな疑問があるが、それはやはり波多武日子命の出自に大きな関連があると思われる。
 武内宿禰の長男の波多八代宿禰は波多武日子命よりも四〜五代後の応神期の人物だが、百済の非礼を責めるため朝鮮に進出した功績により地域名の「波多」の姓を賜ったものと思われる。これは波多武日子命も同様で伝承によれば朝鮮に進出し帰還したとされている。波多は派遣された地名を表し武日子の名前は武神としての性格を表しているのは間違いない。波多武日子命も大和政権の伸張期に大彦命が東国に派遣されたのと同様に朝鮮半島に派遣されたのだろう。しかし海北の攻略は難しく期待された平定までにはいたらなかった。それが国史に事跡を記載されなかった理由ではないだろうか。
 派遣された波多武日子命の軍事集団は、当時既に定着して現地化していた倭人集団と南下して秦韓を形成した秦族を統合してボーダレスな辺境民文化を吸収した、そして当時の最先端の技術文化を持ち帰り天皇に献上した。というのが社伝の伝えるところだろう。波多武日子命も波多八代宿禰も名前は和名であることから考えて、その功績によって波多の姓が与えられた倭人であると考える。

 波多八代宿禰はその後「波多」の祖として新撰姓氏録に記載されるが、同じ応神期には弓月君が日本書紀に秦氏の祖として記載されている。「波多」の中核は倭人で文化や習慣を朝鮮半島から持ち帰った集団、一方「秦」は生粋の渡来人集団というくらいの意識の差くらいはあったかもしれないが、当時から両者を完全に峻別していたと考えるのは難しい。後の世代になれば尚更である。
 波多武日子命も波多八代宿禰も軍団を率いて朝鮮半島に進出したのだから、グループとしての数は数千人単位だと思われる。その中には捕虜や人質あるいは自発的な渡航者として純粋な秦人が存在してもおかしくないし、まだ文字が定着しない時代に「波多」と「秦」の同音異句の峻別は不可能であっただろう。これが波多武日子命と波多八代宿禰の波多グループと弓月君の秦グループが混同された原因だと思われる。
 
 波多武日子命の後裔は他にも難波氏や難波忌寸等の一族集団を形成しており特に外交分野で活躍したとされる。波多武日子命の後裔が倭人と秦人の混合集団であることが外交に携わる氏族を多数輩出した理由だろう。また、波多武日子命は阿倍氏の祖とされる同じ大彦命の御子である武渟川別命と兄弟である。阿倍氏が統括して吉士舞を奉納したとされるのはその辺に理由があるのではないだろうか。阿倍氏と三宅人等の秦グループは同じ大彦の命の後裔として、大彦命をお祭りする神社の初期祭祀に相当深く関わったのだろう。そのことが敢国神社等の伝承として秦氏の関与が伝わる理由だろう。

 結果的には波多武日子命は朝鮮半島から秦の文化習慣を持ち帰ったが、その直接の後裔は母系の氏族を名乗り秦氏の祖とは名乗らなかった。その理由は波多武日子命は出自が倭人であるが故に、当時あったとされる天皇の皇子が母方の姓を継承するという母系系譜の風習に影響された可能性が強い※1。それが波多武日子命が波多の祖ではなくて三宅人の祖とされる由縁である。「三宅」は妻神とされる天美明命の天日桙命を祖神とする母系グループの姓である。
 それではなぜ「みやけ」が天日桙命の後裔とされるのか。み=尊称、やけ=天皇の住宅といわれるような「みやけ」の一般的解釈では到底理解不能だ。天日桙命伝説の中核に「赤い玉=赤石」伝説がある。赤石は辰砂のことで、秦文化の中核の神仙思想の不老不死の薬「丹薬」の原料である。「播磨国風土記」で天日桙命が伊和大神と争った播磨には「明石」(赤石)の地名もある。この赤い石から生まれたのが比売碁曾神社の祭神「阿加流比売神(アカルヒメ)」である。アカルヒメのアカは赤石の辰砂から来ていることは明白である。波多武日子命の妻神である天美明命は、天日桙命の姓を受け継ぎ名前は阿加流比売神のアカを受け継いだのだろう。天美明命はアメノ=ミアカリ命またはアメノ=ミヤケ命で、ここに「ミヤケ」の音が登場するが、これは母の「アカ」を受け継いだ「みやけ」で本来は「ミアカ(リ)」ではないだろうか。

 当時「あか」が美しく貴重なもとのされた証拠は、記紀等の史書にも無数に登場する。何よりも特徴的なのは「古事記」の応神段に登場する有名な妻問歌「この蟹や いづくの蟹...」に現れている。蟹の赤い色と宮主矢河枝媛の化粧のアカを対比して詠んだ歌で、女性と化粧品としての辰砂等の関係を暗示している。有名な「魏志倭人伝」の「朱丹を以てその身体に塗る、中国の粉を用うるが如きなり。」を持ち出すまでもなく、古くから身体の装飾して朱丹は用いられてきた。そこに秦文化の神仙思想がプラスされわけだから重要性はよほど強固なものだったに違いない。

 これらのことを考えるとの天日桙命の後裔の「みやけ」は天皇の住宅を起源とする「み=やけ」ではなくて、美しいアカ(辰砂)の意味の「み=あか」が変化し「みあけ」となったもと推測する。これは秦族が持つ辰砂の神仙思想に旧石器時代から続く日本古来の「赤石」信仰が合体したものである。この祭祀性の強い朱丹の統括者は上記の事例から初期秦グループの中でも特に女性だった可能性が示唆されるし、後に秦氏が日本の丹生を支配したといわれる起源に繋がる可能性がある。
 
 最後にもう一つ、波多武日子命の後裔の三宅人が「倭人」と「秦人」の混合・混血集団と考えられる根拠は、三宅人の「人」の称号である。新撰姓氏録では皇別に記載される三宅人は、臣や連、真人といったカバネが大半を占める中で、「人」の称号は三宅人だけである。三宅人の「人」の称号はカバネではなく部族を表す名称だろう。皇別で「人」の称号は三宅人だけに認めれた非常に特異な称号だということが出来る。(神別に神人があるがこれは神に仕える職種。また、三宅連は諸蕃に分類される。)
 新撰姓氏録は渡来系と在来倭人を厳格に峻別していて、諸蕃には「人」の称号がいくつか登場する。阿祖使主の後裔で「椋人」秦公酒・弓月王の後裔で「秦人」、百済国人多夜加の後裔の「漢人」左李金の後裔で「韓人」である。諸蕃でもカバネの尊称が大多数であり「人」の称号は少数である。ここでも「人」の称号はカバネではなく部族を表す名称だと思われる。
 皇別で「人」の称号は三宅人だけであるのに対して、諸蕃ではいくつか散見されるということは「人」の称号が渡来系の部族に与えられたものであると推測出来る。波多武日子命の後裔とされる三宅人が純粋な倭人であれば「人」の称号にはならなかったのではないか。三宅神社の社伝の通り三宅人が大彦命と天日桙命の両方を祖神とする由縁である。


古志 三宅神社二座 研究 「管理人」

※1 佐藤良雄 (成城大学 民俗学研究所 成城法学53号 「天皇の多妻婚」より
一般に臣姓の氏族には地名を称する場合が多く、連姓の氏族には職業を称する場合が多かった。
なおその三として、当初の氏の名称がその後の事情によって変更される相場合があった。氏族がその本拠地を変更する場合、別の有力氏族の支配下に入る場合、朝廷から別氏を賜わる場合のほか、
婚姻によって氏の変更を生ずることもあったと言われている。とくに最後の点は日本の古代社会が母系制社会であったこと、そこでおこなわれた婚姻制度が妻問婚ないし婿取婚であったこととの関連で重要である。母系制社会における妻問婚のもとでは、夫は妻と同居せず、妻と子は母家において生活をつづける。生まれた子は母家の氏を称するのが原則であるが、母系制社会が父系制社会へ移行するとともに子が父の氏を称することも生ずるようになってきた。

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