三宅神社社伝の検証 4

三宅神社社伝に登場する地域名称・人名、年代等の検証

「鎮窟」と「龍石」
 
三宅神社の社伝の御廟山大絵図に「鎮窟」と「龍石」が記載されている。「鎮窟」の方は昔から「鬼の穴」として有名で、地元でも伝承が残り畏怖の対象として語り継がれて来た。社伝では禁足地として書かれていて何らかの祭祀が有った事を伺わせる。また周辺には境沢、登滝、日石等祭祀を思わせる地名が濃密に表記されている。「岡南の郷土史」では、  「郷教育資料」(古志郡六校会 昭和11年)から引用して、波多武日子命と天之美明命が最初に降臨した岩窟だと伝えている。

 このように、中世から説話をともなって近郷に有名だった「鬼の穴」(鎮窟)に比べ「龍石」の方は社伝の額面に書かれているだけで、地元の伝承もほとんどなく謎に包まれていた。しかし、最近地元の歴史民俗研究家「広井忠男」氏の研究によって当地が中世の「竹樫城」の城址であること、地元の人は「タツガシ」と呼んでいる事が判明した。(小千谷文化)私が震災前踏査したおりには野良仕事をしていた地元の人に地名を尋ねると「タカシ」だと教えてくれた。由来書が書かれた江戸初期には「龍石」(タツイシ)と呼ばれていたものが「タツガシ」「タカシ」に変音し、「竹樫」とも漢字で表記されたものと思われる。ちなみに、現地には竹も樫の木も生えていない(樫は照葉樹のため雪深い当地では育成しない)。

 さて、「鎮窟」の方は由来書にも集中的に記載してあり、祭祀の記憶が明確だが「龍石」は名があるのみで祭祀の記憶は忘れ去られていたようである。上記の広井忠男氏の研究によると「竹樫城」は、会水城城主の石坂与十郎とその家老広井大膳太夫が上杉軍と戦って退転した際の城だという。また付近には「金比羅信仰の巨岩」と「仏石」があると言うが、「仏石」の方は南面の断崖に位置し未確認だそうである。「金比羅信仰の巨岩」は金倉山遊歩道から南へ行った尾根上にある巨岩の事のようであるが、現在当地には石祠があり祭祀されている。また、戦前まで毎年夏に麓から百八の灯のろうそくを灯し、参拝しお神酒をいただく「風祭り」の祭礼を行っていたと言う。

 巨岩上で行う「風祭り」は、果たして現代の神道が教える様に作物に被害を及ぼす「風」を避ける為に執り行うものだろうか。私にはそうは思えない。谷川健一氏が指摘する様に稲作文化に先行する金属文化の記憶として「風を待つお祭り」として行われて来たものが、稲作文化の定着とともに忌み嫌われ上書きされたものだろう。祭礼で使用する百八の灯のろうそくという大量の火は金属精錬のそれを連想させる。また、祭神の金比羅神権現は船に「風」を吹かせる風の神である。船に風の止まった凪は大敵であることを思えば容易に理解できる。

武田 明氏は「金見羅信仰と民俗」では次のように述べている。

 「これは金毘羅大権現が象頭山上に鎮座しているから他のこんぴらさんも山上なけらばならないと思ったのかもしれない。私はこれは象頭山を含めて山から吹きおろす風の信仰から出ているものと思っている。
 徳島県三好郡の山村では、大風が吹くと金比羅山にお祈りすると言う。そして風を止めてもらうとうのである。金比羅大権現の祭礼の十一日の夜は箸倉山には大風が吹くという話を私は箸倉の山麓で聞いたことがある。今のところはでは、ただこれだけの資料しかないのだが、私はどうも金毘羅大権現には風とかかわりあいのある伝承があるように思えてならないのである」
ー中略ー
これは金毘羅山から吹いてくる風に相違ない。そこで私は風の信仰といったものが金毘羅大権現には伝承されていると思うわけである。


つまるところ、金比羅神の本体は強い風を吹かせる「風神」の性格が明確であるということだ。

 また広井忠男氏の 小千谷文化「石への敬い、畏れ、祈りの民俗」によれば、近年石祠の下を掘って調査したところ壷が埋まっており、平安時代の古銭が中に有ったとの事である。





 また、三宅神社の社伝には「今の美明山に鎮り座す二つの殿を造り大彦命の御廟は上の峯に造り天日桙命の御廟は中の峯に造り玉ふ。波多武日子命天美明命は陰陽相殿に座すなり。」と書かれている。社伝は江戸の初期に書かれたものだが、「御廟」や「陰陽相殿」という言葉は明らかに中国の陰陽思想の影響を読み取る事が出来る。「御廟」は中国風に解釈すれば墓所とは別の先祖を祭祀するところ、「陰陽相殿」は陰陽相対する祭殿と考えられる。
 民俗学者の吉野裕子氏は日本の古神道祭祀の中に陰陽五行の影響を指摘して来た。吉野氏によれば磐座の「クラ」はV字型の凹み(へこみ)で「穴」表し、北西方向に位置する「陰」を象徴する女性神を表すという。金倉の美明山から北西方向のV字型の谷の崖上に位置する「鎮窟」はまさにそれに相当するにふさわしい祭祀場である。
 また「陽」を象徴する男性神は南東に位置し、蛇又は龍を意味する凸状のものを表すという。そして蛇神は三角錐の形をとるという。それはトグロを巻いた蛇の象徴で、三輪山の山容や諏訪神社の神体にも表されている。吉野氏によれば「蛇」は陰陽五行の渡来以前から日本で行われて来た祖霊信仰の古い形だという。

 諏訪大社の円錐型のトグロを巻く蛇

 その男性神を象徴する三角錐状の石積塚を「龍石」の山中斜面で複数存在するのを今回確認した。地元では現地の最大の巨石構造物上では石祠を置いて祭祀していたようであるが、中越地震で飛ばされ崖下でバラバラになって放置されていた。他の石積塚ではそのような祭祀痕はなく、存在も忘れ去られていたようである。金倉の美明山から南東という方向からはずれるが「鎮窟」とは高度で対になっているように思われる。(詳細は下の図および写真で)

 私が「龍石」にある三角錐状の石積塚を男性シンボルである蛇・龍の祭祀痕だとする最大の理由は、他にも当HP「神名倉山の山岳信仰、岩石信仰」で記載している朝日村不動社の「女滝」にある巨石が「大蛇石」と呼ばれ、大蛇がぐるぐる巻きにしてつけた痕跡だという伝説があるからである(広井忠男 小千谷文化 「石への敬い、畏れ、祈りの民俗」)。
 「龍石」と「女滝」は同じ山の上下に位置し、金倉山の溶岩地層が狭い範囲で露出した地点である。(top 周辺マップ参照)蛇がぐるぐる巻きにした巨石とは、とぐろを巻いた石そのものである。よって、朝日村周辺の巨石信仰は「龍石」にあったものと同じ古代神道形式の山の神祭祀を行って来た集団のものであると推測できる。そして「女滝」の名称自体が「目の神」に由来する製鉄神由来の可能性も考えられる。(付近には目の神につきものの怪物伝承が存在し、滝はないのに巨岩が女滝と呼ばれることや、朝日名称・大蛇伝説等は全て製鉄関連の事象である事など)

 朝日村の女滝「大蛇石」周辺

 V型の谷に位置する「鎮窟」と逆V時型の円錐形の石積塚がある「龍石」は、詰まる所、女陰と男根の象徴であるという。二つの神形が揃う事は吉祥であるとされる。山の神は人間の性に託して豊穣を願う日本の古い祖霊信仰の形態であるという事である。吉野氏の説で「鎮窟」と「龍石」の持つ意味が驚くほどよく理解できるのである。これが社伝にいう「波多武日子命天美明命は陰陽相殿に座すなり」の核心ではないだろうか。

 それではなぜ、辺境にあるいち式内社の祭祀の核心が、これほどまで陰陽道の影響が濃厚なのか、その答えはやはり祭神に見る事が出来る。「波多武日子命」は記録上の最も古い秦族渡来の記憶だと「祭神」の項目で書いた。秦氏は権力の表舞台で活躍するより裏方として、大陸からもたらした陰陽道で神社を統合するネットワークを造りあげたともいわれる。その中心人物に平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという聖徳太子の側近の「秦河勝」がいる。三宅神社の祭神「波多武日子命」は幾度かに渡る秦族の渡来の最古の部類であり、同時に陰陽道を古神道に取り入れた最初の事例なのかもしれない。

 とはいえ、常識的に考えれば陰陽五行が導入され手のが6〜7世紀、「龍石」近くの金比羅権現から掘り出された古銭が平安時代ということから、金倉山に置ける社伝の祭祀の最盛期はやはり平安時代を下らないと思われるが、これについては未だわからない部分が多く今後も詳しく調査検討していきたい。以下、今回新たに確認した「龍石」の石積塚群を紹介したい。



 まず最初に確認出来るのは「龍石」に入る前の音羽の滝手前にある石積塚である。塚のすぐ前に民家があり、震災前直接お話をお伺いしたところ「経塚」の伝承がある事を教えていただいた。小千谷市の史跡指定は受けていないようである。「龍石」の石積塚とは近いところにあり、形状や構造が似ているので同時期のものかもしれない。これから下の石積塚は全て今回新たに確認した遺構である。




 金比羅信仰の巌 南側より撮影

 龍石の巨石群(撮影方向ニ)


周溝付石積塚 1=高さ8m直径20m位か、見事な三角錐が現れている畏怖が伴うほど大きい(撮影方向ロ)

周溝付石積塚 1の周溝部分をパノラマ化(撮影方向イ)


周溝付石積塚 1の墳頂から周溝パノラマ


龍石最大の石積塚、自然地形を利用して付近の周溝の石を積んだか。頂上部は図にある様に2つの塚がある。
(撮影方向ハ)
 
頂上の石積塚(撮影方向へ) 石組みのアップ、人頭大の石が積み上げられている

 
頂上の石積塚のへとホの間 頂上部の石積塚は積み石に木の根が絡み付いてどれもマヤの失われた遺跡状態。

 頂上の石積塚主体部(撮影方向ホ)




2013.12
追加で「小栗山」集落の入口、女滝近辺の中世塚 
初冬は見晴らしがいいので観察しやすい。
写真では大きく見えないが大きい方で5〜7mくらいは直径がありそう。
やはりきれいな円錐形をした塚なので最上部の龍石の石積み塚と関連がありそう。
この塚がある場所と龍石では高低差が300mくらいはありそうだ。







 
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