(昭和期の写本)

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 延喜式内 三宅神社二座 
『当社旧記古證 並 御廟山大絵図 寫』 

 寛文5年 (昭和期写本)

現在は長岡市郷土博物館に寄託保管中
  延喜式内 三宅神社二座 当社旧記古證 並 御廟山大絵図 寫
不明部分有るため概要)

 越の宗廟三宅神社の由来は、元素人皇八代孝元帝の皇子大彦命の男宮波多武日子命越の国を賜り玉ふ。時に新羅王子天日桙命を倶い中津国に至り天皇に仕へ奉る。この時越の川東を賜り波多武日子命、天美明命を婚り合せ此の国に至り賜ふ。

 今の美明山に鎮り座す二つの殿を造り大彦命の御廟は上の峯に造り天日桙命の御廟は中の峯に造り玉ふ。波多武日子命天美明命は陰陽相殿に座すなり。御尊体二柱の御神系にして三つの宮造なる故三宅神社二座と奉称なり。

 爰にこの国を越と謂う縁は都の空より御幸成賜ふ故なり。越の元司なる故、越の国の名を賜ふ後に越を唱ふこと明かなり。然して後二神の兒三宅真人武倉麿は館を峯の半に建る。其の古跡と御所平と唱ふ此の所に供御水と唱ふ清水有り。この水色日に日に更り深浅知り難し。次に前の簾岩の上に館を出て館を造り替て、姓を神名久羅の御所と改め、其の古跡を御所塚と唱ふ。社頭の経営寓春を重ねれば弥頴す。後に醍醐帝の勅に依り延喜年中式載。

 三宅神社鐙鑑は、萬世なる故、皎々と御廟宮柱大敷礎垂れ賜ふ。越の元の本の産神に座す。千代古より来る碑は往を告る。古志の国の神人共にこの二神より産出す。姓氏数萬の家宅と分ること明かなり。

 上の嶺は今、幡持山と唱ふ。中の嶺は幕山。この美明山の隣に鎮窟有り今の人この窟へ入ることを許さず。峯の登、榊つるね。この下に烏帽子嶺、御山の惣名神名倉と唱ふ。

 栄衰は天長の頃治乱に依て御山より一里隔て会川に至る。星野原に築城、姓を星野大連と改め、長く居、この頃天皇の勅に背き、御咎を蒙り館を消滅さる。其の謂ふは、帝の御記録に見たり。落城の後古跡に戻って却元の姓にで三宅大連と号し、代々の治乱に城館社頭皆々減却神系微に統ぐ。御廟遷座と栄衰の年次知り難し。文治元己年邑里に隔つごとを煩ひで大官司姓を三宅大人と改め館を麓市に造替で居す。其の跡を氏の居所と唱ふ。後亦険を欲す。大久保ヶ岡に下り暫く居す。

 裏の御山の上の嶺の大彦命を三明山の麓に奉遷座の後妙見と申す。中の嶺に座す天日桙命を的場崎 平岡に奉遷座の後中片と申す。下の嶺に座す二神、波多武日子命、天美明命を大久保ケ岡に奉遷座。姓を神滝谷連と改め、今俗に宅を神滝谷七竃と唱ふ。

 二祖大神都より至り賜ふ故に美屋古濃曽羅と神号奉称す。依つで尊号、社号、神号、揃ふに依って定まる。寛治五年社境の広狭を撰ばず、今の古宮田の所へ奉還座。この時神滝谷連は屋登女ケ沢に下り今の屋敷田の場所なり。其の後に至り大久保ケ岡の社跡に今の寺を雇置くなり。正徳二辰秋今の所に遷座なり

 餘は日本紀、続日本紀、姓氏録、延喜式等に委しく書載有るなり。神系明白跡を垂れ賜ふ。二神の血脈を継来る者なり。四部の勅書は今日本に於いで書く人知る所なり。依って之二神を古志の宗廟と人仰き奉ること明かなり。

 寛文五年八月七日(1665年)

 右は吉田殿より御尋に付古語旧記に依り寛文五巳年八月十一日奉行下妻右京、鈴木左京両名江書記して相達す。同六年十二月並びに享保五子年五月公儀より神社本末御尋ねの節寺社奉行所へ宛書上げ納む
三宅大連當虎

附記
一、大彦命妙見村鎮守 三宅神社宇都之宮大明神 社守 三明梶元 和今稗生村仁落山伏止奈利観請院止号 惣鎮守仁宇都之宮於観請須
一、天日鉾命中片村鎮守三宅神社宇都之宮大明神 社守 的場崎 平岡乃治部 和今村仁居百姓止成居須 三明 平岡 乃呼姓神滝谷連乃分姓仁天 神滝谷七寵与利 郡内万姓分留奈利
安永2年(1773年)



参考1
安永2年(1773年)当時の社家は

六日市村 三宅大連當虎(星野大内蔵)
中潟村  平岡 治部
妙見村  三明 梶元

現在、星野家、平岡家は現存。稗生村の三明姓は小林姓となって観請院を祭祀。
星野家は社家の中核的存在だったが明治以降、現地は養子縁組で継続。その際に系図等の伝世書類は東京の親族へ渡ってしまったとのこと。また、中越地震以降星野家は家屋崩壊のため移転し現地にはいない。
星野家の「大蔵」、平岡家の「治部」は律令時代の官制の名称にある。他に、六日市城主の名前に「高橋刑部」の名前があり、中世に律令時代の官制を名乗る風潮があったようである。ただし、何らかの根拠で自称していたのだろう。
 唯一の三明姓は妙見にあったが隣の小千谷市稗生に退転した。現在観請院を護持しているのは小林姓である。現在妙見神社近くにある中世塚の「王塚」はこの三明姓の墓所であろう。

参考2
三宅大連當虎の墓は現六日市三宅神社の裏山にある。
寛文5年に社伝を吉田神道家へ提出した人物とは年代が離れすぎているため別人と思われる。
一番の活動期は安永年間と思われるが、古志郡内及び魚
沼・刈羽・三島四郡の式内治定神主16名を取りまとめ神文を取り決めるなど精力的な活動をした中越地区の神職の巨人であることは間違いない。
他に魚沼神社の証人として上洛したり、見附市の熱田神社の古證古記の記載にも尽力したらしい。



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